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 軍隊生活と戦友会    畑 偕夫
 

軍隊生活について

1.私たちの世代は、青春期に戦争・軍隊をさけて通ることの出来ない運命を持っていた。私も中学を卒業し、郵便局員となった。私の小学校の同級生で役場に勤めていた吉田治君、隣へ奉公に来ていた藤原宗一君らと、よく加古川へ出かけて、喫茶店、カフェーめぐりをした。私の不良少年時代である。

2.昭和19年1月25日に大阪信太山の砲兵隊に現役兵として入隊した。ここで2月10日まですごす。砲廠にわらを敷き、毛布で作られた寝床である。縁あって結ばれたわれら同年兵500名である。

3.満州関東軍に転属することになり出発。下関から釜山、朝鮮半島を北上、図們で満州入りし、12月13日勃利に到着。玄海灘の波を経験、殆んどがダウンする。

4.勃利は残雪程度であったが、寒かった。兵舎は本造の掘っ建て小屋で、えらいところへ来たと思った。両側面半分は土で覆われ、その上に小さい窓がソ連側に向かって並んでいる。

5.昭和14年のノモンハン事件で、日本軍隊の機械化が促進された。勃利には連帯が数個ならんでいた。精鋭の機械化兵団であった。戦車3連隊を中心に、機動砲兵隊、速射砲兵隊、工兵、歩兵、輜重隊で編成されていた。

6.野砲もゴム輪の90式野砲で、6トン索引車が引いた。こんな機械化兵団が満州に2、蒙古に1あった。特に2中隊は、戦車の上に野砲をつんで走る自走砲が配備されていた。

7.私は整備中隊に配属され、弾薬、物資の運搬が主な任務であった。初年兵教育はトラックの運転であった。始動には前でハンドルを回す代物である。7月に幹部候補生の試験があり、合格、訓練に入る。甲種(将校)と乙種(下士官)に分けられた。私は中隊トップの9位で甲幹に合格した。私的制裁は禁止されていたが、兎に角よく殴られた。馴れてくると、殴られることに一種の快感を覚えるようになり、殴られない夜は寝つきが悪い。

8.中学4年の時、進学組(2組)と就職組(1組)に分れた。私は就職組を希望した。長男、末っ子が多かった。ここで成績が一番になってしまった。そして5年1組の組長となる。元来私は勉強は何とか出来たが、体操、武道、教練などが苦手であった。級長のおかげで、不得意な科目も、得点が与えられ、優等生として、卒業した。私は戦争を生き延びることが出来たのは、甲種幹部候補生に合格したことが、結果的に大きな幸運の鍵となったものと認識している。

9.昭和15年、学校教練15周年に当たり、全国の中学校、高校、大学各1校から10名が選ばれ、神宮外苑で閲兵式が行われた。私も代表として参加したがこれがあのテレビで有名な昭和18年の学徒出陣につながるのである。

10.初年兵教育1期の検閲が終わった頃、動員下令、部隊は比島ルソンへ派遣されることになり8月10日出陣して行った。同年兵の約400名も、戦友とともに比島へ渡った

11.軍隊の中に居ると情報が全くない。戦況がどうなっているのかも、わからない。寝ること、と、食べることしか楽しみない特別な世界である。

12.当時既に本土決戦の方針が確定しており、山下将軍に率いられた戦車第2師団(撃兵団)もしょせん捨て石に過ぎなかった。沖縄戦も時間かせぎの作戦であった。

13.閑休話題、ここで満州の体験を書いておく。到着した2月は零下15度くらい。ペーチカと防寒具でしのげるが、ないと凍傷になる。夏は暑いが湿気がないので、木陰は涼しい。夜にはもう秋の気配である。北に位置しているので夏の日暮は遅い。夜の点呼も9時、外で行う。印象的なのは、あのまっかな夕陽である。忘れることが出来ない。

14.昭和19年9月、私は教育のため千葉習志野の東部軍教育隊に入る。下関に上陸し秋の中国路の美しさを味った。教育隊は38野砲の輓馬部隊で、馬との接触が始まり、2度目の初年兵になった感じで苦労多し。その上千葉の食糧事情は悪く、毎月体重は減り、馬の豆床まで食べた。乙幹組は満州に残りソ聠参戦でシベリアへ抑留された。

15.昭和19年10月から習志野上空をB29の編隊が定期便のように通過する。3月10日への東京大空襲へと続く。寛子は当時大妻女学生で、空襲に会い、防火につとめたことを、今でも話している。

16.昭和20年4月教育隊を卒業。見習士官として金沢野砲隊に配属される。定まった仕事がないので、乗馬で犀川、卯辰山をめぐり鋭気を養う。金沢の初空襲で大騒ぎになるが私は千葉での経験があるので悠然としていた。

17.昭和20年6月新部隊の編制に入る。山砲兵第15連隊である。金沢の小学校で30名の召集兵、19名の繰上げ現役で編成。頭数はそろったが、兵器は一切ない。連隊本部の暗号科将校となる。ソ聠が上陸したら、不安である。

18.昭和20年4月、米軍はルソン島リンガエン湾に上陸し、比島戦が始まった。わが方に制空権はなく、米軍の物量による攻撃に追われ、山岳地帯で壕を堀り対戦することとなる。日米の戦車の差は大きく、鉄鋼の厚みが違っていた。米軍は3000メートルから日本の戦車を破壊出来たが、わが軍の戦車は1000メートルまで近づかないと破壊できなかった。

19.各部隊とも中隊長小隊長が殆んど戦死している。集合地が示され、山から徹隊が始まる。食糧難に加えて、マラリアに悩まされ、多くの戦友が死亡し自爆した。悲惨な状況だったと云う。

20.第2大隊が名古屋で編成、松任(金沢)に到着した。松任農学校に移る。

21.昭和20年8月15日、敗戦。少尉に任官、残務整理し、9月6日復員する。終戦のとき金沢の司令部で日本敗れたり、複雑な気持である。田舎で郵便局長でもして暮す決心をする。

 
 戦友会について

1.私の所属していた満州第205部隊(機動砲兵第2連隊)は昭和19年比島のルソン島に出陣していった。その戦闘は苛烈をきわめ、1279名の将兵で、生還した者は180名。85%の戦死比率である。

2.このため戦友会の結成が遅れ、漸く昭和58年に至って、最初の慰霊祭が、姫路護国神社で挙行された。私は幸運にも、このことを知り、第1回目から参加した。生き残った者の当然の勤めとして、同年兵、戦友の冥福を祈ってきた。甲幹組では私と藤本光弘君が参加した。

3.一方、満州に残った者は、満州第13044部隊として編制された。ソ連参戦により、捕虜としてシベリア抑留を余儀なくされた人達の戦友会(梅友会)が出来た。私は杉浦正徳氏の紹介で10回目から参加している。いろいろとシベリア抑留の実態を聞くにつれ、大変だったことを実感する。

4.以上2つの戦友会で交流をしている内に、残った同年兵で戦友会を作ろうという話が持ちあがり、平成2年に最初の係りを持った。信太山同年兵会である。信太山に入隊した500名のうち、400名は比島で戦死した。初年兵の生存者は、朝井博一君、足立薫君、山本義一君、田口茂君ら6人である。

5.会員の大半は甲幹(内地で終戦)と乙幹(ソ抑留者)と、動員下令の時満州に残った戦友たちである。甲幹の名簿が見つかって、仲間が増えた。以来毎年同年兵会の集りを持ち、旧交を温めている。

6.朝井博一君は数少ない、ルソン同年兵の生き残りの1人である。西脇の出身で、戦後加古中の畑を尋ねて話したのが、交際のはじまりである。自らも、その体験手記「自走砲と初年兵」を出版している。

7.平成9年11月、「信太山同年兵の記録」を編集200部発刊した。殆んどの同年兵がルソンの土となっているため、記録が少なくて淋しい。ソ抑留の体験談を、内地組の中野学校、憲兵隊で補ったが今ひとつである。

8.平成11年11月、丁度その頃、杉谷盛雄氏の「浄土の叫び」のルソン戦記を読み感銘した。朝井氏と相談し、「ルソン戦記、戦車第2師団の記録」を編集、300部発刊した。杉谷氏の記録を巻頭に揚げ、各部隊の連隊史などの作品を集め、漫画さし絵、各種データーを加え、充実したものとなった。

9.平成19年、205部隊の戦友会は解散し、ソ連抑留者の梅友会も村井末男君の死亡で、自然消滅した。信太山同年兵会も、会員の年令から終止符を打つ日が近づいている。

10.戦友もだんだん欠けて行く。そのスピードが速くなり、私の番が来るだろう。
  昭和21年3月

軍隊生活の思い出

我が国から軍隊は永遠に消えていくであらう。あの勇ましい、軍人姿も戰爭の進展につれてだんだん服装も精神も乱れて、敗戦のいまわしい情景を呈した。当然の結果とは言え、淋しく悲しい。然し軍隊生活は私にとっては決して無益ではなかった
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