218. 原子爆弾に2度被ばくした唯一の日本人 山口彊さん(93歳)が死去

 2010年 1月 6日掲載  2014年 4月15日再掲


阪神大震災の直後に、当時神戸に住んでいた知人より福井地震(1948年)も経験したと聞いた。地震により電柱が次々に倒れていったときの恐怖を生々しく話された。大きな地震に2度も遭遇するのも珍しいケースであるが、本日は2回の原爆を被災したただ一人の方の話がニュースとなった。

広島と長崎で2回被ばくした山口さん(93歳)が亡くなられた。広島では爆心からたった3kmのところでの被災であるので、その衝撃と放射線の強さは強烈であったものと推察される。

人類の歴史において、2回きりの原爆投下で両方ともに被ばくし、しかしながら、93歳まで生き抜かれた山口さんの人生は波乱に満ちたものであったろう。苦難の中を生き抜かれた山口さんのご冥福をお祈りする。

オバマ大統領も核兵器廃絶を宣言したが、欧米人は原則、核兵器が悪であると思っているようである。NOVA(今は名前が変わっている)の関西地区に赴任した先生方が一番に行きたかった場所が広島である。そして必ず衝撃とともに、行って良かったとの感想を聞いた。欧米人の平和に対する思いは強いようである。



福井地震(ふくいじしん)(Wikipedia)

福井大地震は、1948年(昭和23年)6月28日16時13分29秒に発生し、福井県を中心に北陸から北近畿を襲った地震である。

震源は、福井県坂井郡丸岡町(現坂井市丸岡町)付近。戦後復興間もない福井市を直撃した都市直下型地震。規模はM7.1。


原子爆弾(Wikipedia)

広島市
爆発による直接的な放射線被曝のほかに、広島市の北西部に降った「黒い雨」などの放射性降下物(フォールアウト)による被曝被害も発生した。また投下後に救援や捜索活動のために市内に入った人も含めて急性障害が多発した(二次被害)。当時の広島市内には約34万2千人がいたが、爆心地から1.2kmの範囲では当日中に50%の人が死亡し、同年12月末までに更に14万人が死亡したと推定される。その後も火傷の後遺症(ケロイド)による障害、胎内被曝した出生児の死亡率の上昇、白血病や甲状腺癌の増加など見られた。

長崎市

広島の3日後の1945年8月9日午前11時2分、B-29(ボックスカー)が長崎市に原子爆弾ファットマンを投下した。投下地点は、当日の天候のため目標であった市街中心地から外れ、長崎市北部の松山町171番地(現、松山町5番地)テニスコートの上空であった。当時、長崎市の人口は推定24万人、長崎市の同年12月末の集計によると被害は、死者7万3884人、負傷者7万4909人、罹災人員:12万820人、罹災戸数1万8409戸にのぼった。




asahi.com 1月6日より引用

二重被爆者の山口彊さん死去 長崎、93歳

 広島、長崎両市で二度にわたって直接被爆した山口彊(やまぐち・つとむ)さんが4日午前5時38分、胃がんのため長崎市内の病院で死去した。93歳だった。近親者で密葬が営まれた。

 造船所の設計技師として働いていた1945年8月6日、広島に出張中に爆心地から約3キロで被爆。長崎市に戻り、職場で上司に広島の惨状を報告中の9日に2発目の原爆に遭った。2009年3月になって、被爆者健康手帳に長崎に加え、広島で被爆したことも記入された。長崎市が把握する限り、二度にわたって直接被爆した人では記入された唯一の例だった。

 被爆の影響で左耳が不自由なため、語り部活動はしてこなかった。だが、次男が05年にがんで亡くなったのを契機に、06年に記録映画「二重被爆」に出演し、体験を語った。同年、米ニューヨークの国連本部での上映にも駆けつけ、核廃絶を訴えた。自伝に「ヒロシマ・ナガサキ 二重被爆」(朝日文庫)がある。昨年8月に体調を崩し、入院していた。







文書リストに戻る ホームに戻る