204. 曹操の墓が見つかり、これで曹操・孫権・劉備のすべての墓の位置が確定された?

 2009年12月29日掲載  2014年 4月15日再掲


邪馬台国の卑弥呼探しと同様、1700年前ともなると、中国においても歴史に不明確な部分があり、これが古代ロマンを呼び起こすのでしょうね。

推理することは人間に与えられた特権であると思います。



以下引用

Wilipediaより

三国志(さんごくし)は、中国の後漢末期から三国時代にかけて群雄割拠していた時代(180年頃 - 280年頃)の興亡史である。“三国志”と呼ばれるのは、ほぼ同時代の歴史家陳寿(233年 - 297年)がこの時代の出来事を記録した歴史書の名前が、『三国志』であることにちなむ。

この時代の曹操孫権劉備らが争い合ったことは一般にも良く知られている。


【12月28日 AFP】(写真追加)「三国志」の英雄として知られる武将、魏(Wei)の曹操(Cao Cao、155〜220年)の陵墓が、中国の河南(Henan)省で発見された。国営英字紙チャイナ・デー……



孫権の墓

孫権の墓があるのはもちろん呉の地、南京市。
実は彼の墓は孫文(1866〜1925)の墓の片隅にひっそりとあると言いますから、演義などでの扱い同様、他の二人のライバルと比べると、あまりにも惨い仕打ちです(汗)



劉備の墓

《新聞背景》劉備の墓は果たして成都にあるのか、それとも奉節にあるのか。それは学術界においても一大懸案事項として長年論争が続いてきた。陳寿の「三国志」によれば、「劉備は四月に奉節にて死去、5月に梓宮を回って成都に戻り、6月に恵陵に葬られた」とある。しかし専門家の認識では三国志時代の技術条件を考えれば、遺体を炎天下、完全な形で千里も離れた成都まで運ぶのは困難であり、そのため劉備はかなりの確率で奉節に葬られた可能性が高いとの指摘がある。






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