195. オッカムの剃刀(かみそり)とキリスト教の神の三位一体 ユダヤ教、イスラム教との違いはどこか

 2009年12月25日掲載  2014年 3月 7日再掲


本日クリスマスは救世主イエスキリストの誕生日だ。イエスキリストは神の子といわれる。怒れる父の神に対して愛の神と言われ、ユダヤ教から離れて愛することを宣教した。ユダヤ教がユダヤ人のみを助ける神であったのに対し、イエスは全世界の民を愛でもって助けようとしたとされる。

さらに神には聖霊というもう一つの姿がある。これがまた難しい。Wikipediaによると、

聖霊(せいれい、英: Holy Spirit)は、キリスト教の三位一体である神の三つの位格(ペルソナ)の内のひとつ。ギリシア語「プネウマ・ハギオン」の訳。三位一体とは、「父なる神」と「ロゴス (λ?γο?) である子なるイエス・キリスト」と「聖霊」の3つが、皆尊さが等しく、神は固有の三つの位格(自立存在: 希 υπ?στασι? (hypostasis), 羅 persona)でありながら、実体(希 ουσ?α (ousia), 羅 substantia)は同一であるという意味。

聖霊は、目に見えないが神自身と同じ性格をもつ人格的な存在であって、ギリシャ語では、風や息とおなじπνευμα(プネウマ)という語で表現される。神と人とを繋ぐとりなし手であって、人間が内面から刷新されることによって「善良な行い」を聖霊のみちびきによって行うことができるようになるとキリスト教では考える。


となっている。この父と子と聖霊が神であり、一人(ひとつ?)の神が三つのペルソナを持って現れているとされる。


ユダヤ教にはただ一人の神ヤハウェがいるだけの一神教であり、イスラム教もただ一人の神アッラーを信じている。キリスト教だけが、やけに哲学的というか、神のあり様を解析し、場合によって?使い分けている?

一神教と多神教は頭の中では理解できる。ただし、父と子と聖霊が現れて一神教と考えるのには少し無理があるのではとついつい考えてしまう。このあたり、キリスト教を専門とする神学者からみると、きっと私が暴言を吐いていることになるのだろう。

いっぽう、絶対的ではないが、オッカムの剃刀(かみそり)という考え方がある。同じ事柄を説明する場合に、その説明が2通りあると、簡単な説明のほうが真理であるというものである。

Wikipediaより

オッカムの剃刀(オッカムのかみそり; Occam's razor; Ockham's razor)とは、「ある事柄を説明するためには、必要以上に多くの実体を仮定するべきでない」( Entities should not be multiplied beyond necessity )という指針。思考節約(思考経済)の法則・ケチの原理と呼称することもある。

    1.外から力がかからない物体は神が等速でまっすぐに動かす
    2.外から力がかからない物体は等速直線運動をする

この2つでは、2.がシンプルで真理を表す。

このオッカムの剃刀の考え方を用いると、ユダヤ教、キリスト教、イスラム教のうち一神教に近いものは、ユダヤ教とイスラム教ということになる。

クリスマスのこの神聖な日に、このような不信心な文章を書いてしまったが、この日だからこそ一神教の神とは何かを改めて考えてみる必要があると思ったわけである。キリスト教において、人々に強く働きかけるのはイエスのペルソナである愛を持った現れであり、他の2つのペルソナと協力して?私たちがどこにいても常に働き続けてくれている。

神は愛である。




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