61. 伊藤若冲の屏風が北陸の旧家で見つかる その奇抜なタッチは現代でも新鮮

 2008年12月23日掲載  2014年 1月13日再掲


伊藤若冲(若冲)は江戸時代の有名な画家である。82歳の時の作品が北陸の旧家より見つかった。

想像であるが、江戸時代には陸運よりも海運が栄えた。船で運ばれた積み荷は小舟に積み替えられ、川を上って内陸部に運ばれた。また、内陸部からは帰りの舟で穀物が河口へと運ばれて行った。河川の荷降ろし場からは旧街道にそって荷が街道筋を運ばれて行った。塩の道と呼ばれる流通経路もこのひとつである。

ところが、鉄道が通り、道路網が整備されると、流通ルートに大きな変化が生じ、かつて栄えた町は発展から取りも越されることになる。日本国中にこのような場所は多く見受けられる。

江戸時代に豊かであった地方の商売屋や庄屋の主は、その敷地内に蔵を有し、集めた美術品等を大切に保管した。分家等により多少の散逸があったとしても、多くの部分は本家に残った、あるいは、未だ残っているものと考えられる。

どのような旧家で若冲が発見されたかの報道はないので、はっきりはしないが、現代から取り残された旧家で発見されたに違いないと私は考える。価値ある骨董品は川舟が通った川筋の旧家に眠っている場合が多いとも聞く。

旧家にねむる骨董品は、売る気がなくても価格がつけばそこに相続税が発生する。旧家の選択は、1.隠し通す、2.生活に困り売り飛ばす、3.相続税に困り市の美術館に寄付する、のどれかのパターンとなる。今回は不幸にも発見されてしまったということか。

昔栄えた村での生活が不便になってくる今日、旧家の主は田舎を捨てて都会に出て行くケースも今後ますます増えてくる。住み慣れた家屋を後にする時、主も知らなかったお宝が出てくる可能性は十分にある。これからも、この類のニュースが定期的に紙面をにぎわせるものと楽しみにしている。


Wikipediaより
伊藤若冲(じゃくちゅう)
正徳6年(1716年)、京都・錦小路の青物問屋「枡源」の跡取り息子として生まれる。23歳のとき、父・源左衛門の死去に伴い、4代目枡屋(伊藤)源左衛門を襲名する。「若冲」の号は、禅の師であった相国寺の禅僧・大典顕常から与えられた居士号である(「居士」は、在家の仏教信者のこと)。絵を描くこと以外、世間の雑事には全く興味を示さなかったという。商売には熱心でなく、芸事もせず、酒もたしなまず、生涯、妻もめとらなかった。40歳の宝暦5年(1755年)には、家督をすぐ下の弟に譲ってはやばやと隠居し(当時、40歳は「初老」であった)、念願の作画三昧の日々に入った。以後、85歳の長寿を全うするまでに多くの名作を残している。

代表作の一つ 紫陽花双鶏図 (同じくWikipediaより)


http://www.asahi.com/culture/update/1220/OSK200812200069.html
引用の始め
江戸時代に京都で活躍した絵師で、近年、「奇想の画家」として人気の伊藤若冲(じゃくちゅう)(1716〜1800)が晩年に描いたとみられる屏風(びょう・ぶ)が北陸地方の旧家で見つかった。屏風は縦159センチ、横354センチの六曲一双(左右一対)。一方(右隻)に波打ち際に座る白い象が、もう一方(左隻)には黒い鯨が潮を吹き上げている様子が大胆に描かれている。

象を描いた屏風の右隻


黒い鯨を描いた左隻


                                 引用の終わり



もっと知りたい伊藤若冲―生涯と作品
序章 市場を逃れて自然を描く―商人から画家へ(エピソード・狩野派の画法)
第1章 最初から個性的―初期作品(若冲の人脈・大典;エピソード・鶏を映す―「松樹番鶏図」 ほか)
第2章 東アジア花鳥画史のモニュメント―動植綵絵(若冲の人脈・売茶翁;エピソード・雀を放つ ほか)
第3章 単色デザインの斬新さ―水墨画と版画(若冲の人脈・曾我蕭白;エピソード・金刀比羅宮の障壁画 ほか)
第4章 最後まで衰えない画力―物好きの晩年(若冲の人脈・木村蒹葭堂;エピソード・石峯寺の訪問者 ほか)
総論 伊藤若冲と江戸中期絵画の豊穣

異能の画家 伊藤若冲
人生篇1 青物問屋の若旦那、転じて画家となる
これぞ旦那芸の極致畢生の大作『動植綵絵』
空前絶後の絵画テクニック
73年間も行方不明だった『菜虫譜』
人生篇2 火事も病気も乗りこえて斗米庵若冲翁の矍鑠たる晩年
片隅的世界に見る無限の宇宙
斗米庵読み解き事典




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