55. 明珍家 第52代当主明珍宗理 生業の強さを実感させる家系

 2008年11月16日掲載  2014年 1月13日再掲


今年は紫式部の源氏物語・千年紀で京都がにぎわっている。当時から日本の文化レベルが高かったことを海外に知らしめている。

刀や兜(かぶと)、甲冑(かっちゅう)、轡(くつわ)などの戦に用いる用具も早い時期から作られていた。この甲冑を作る匠としての明珍(みょうちん)家が日本経済新聞(11月12日付)に紹介されている。

この記事を読み、まず、家系が絶えず、しかも生業が連綿と続いていることに感心した。さらに、時代の流れをうまく乗り切るその術は、鎧や轡が触れ合う音が870年前の明珍の由来、「音響朗々、光明白にして玉の如く、類稀なる珍器なりとて明珍の二字を賜ひ」を忘れずに、それをどの時代にも強みとして生かしていることである。「中小企業は得意技術を磨き、オンリーワンを目指そう」との最近の掛け声を正に実践しているのである。


以下は日経新聞の要約である。※は筆者が追加
ネットで検索すればこれ以外にも多くの記事が見つかる。
たとえば、
http://www.kobe-np.co.jp/news/seiban/0000892660.shtml
など。

日経新聞の要約

明珍家の始まりは12世紀の半ば。約870年前。
ここから数えて今の姫路明珍家の当首は52代目となる。
(※徳川幕府は264年間で15代、1代当たり17.6年となる。明珍家は同様に計算すると16.7年/代となる。明治以前においては、徳川家と同じように当主が交代していったものと考えられる。詳細は系図を調べる必要があるのだが。)
この間、連綿と生業(なりわい)が続いている。
楠木正成や戦国大名の甲冑も明珍作が多い。

明治に入り、姫路明珍家は火箸の制作に活路を求める。

40年ほど前には、家庭から火鉢が消えた(※火箸の危機)。
52代当主の明珍宗理(みょうちんむねみち)は1965年に火箸風鈴を考案する。(※冬に用いる火箸を夏の風鈴に用いるのは、当首が明珍の名の由来・その強みを知っていたためであろう。火箸を4本、真中に軽い振子をつるし、わずかな風でも振り子が触れ涼やかな音色を生み出す)。

次代には新製品が求められる。
玉鋼(たまはがね)から火箸風鈴を制作
チタン材を利用したお鈴(おりん)、おわん形打楽器の制作など、
ハングリー精神が旺盛である。

長男の宗久氏、三男の敬三氏は父と働き、
売上は4500万円/年/3人

二男の裕介氏は刀鍛冶として活躍。

長男が名前に「宗」の字を受け継ぐ。


http://www17.ocn.ne.jp/~verdure/yogo/yogo_mi.html

引用の始め
明珍(みょうちん)
具足鍛冶師。初代 増田宗介紀ノ太郎が、近衛天皇(1141〜54)に鎧(よろい)、轡(くつわ)を献上したところ、触れあう音が「音響朗々、光明白にして玉の如く、類稀なる珍器なりとて明珍の二字を賜ひ」という伝があり、代々「明珍」と称した。元は京都で馬の轡を作る轡師で、室町時代くらいから刀の鐔を作るようになったという。安土桃山時代に宗広が具足のほか火箸・鐶などの茶道具を手がけた。江戸時代に、明珍宗信が江戸に居を構え、元禄・宝永ごろ中興の祖 明珍宗介が、系図や家伝書を整備するなどして家元制度を整え、古甲冑を自家先祖製作とする極書を発行し権威付けを始め、弟子の養成に努め、「明珍」の名乗りと名に「宗」の字の使用を許すなどしながら勢力の拡大を図り、甲冑と言えば「明珍」といわれるようになり、明珍派は上州・仙台・越前・土佐など各地にあり俗に脇明珍とよばれる。現在姫路明珍と呼ばれる家系は、前橋から移封され姫路城主となった酒井雅楽守忠清にお抱え甲冑師として仕え、茶道具も製作する。49代 明珍宗之のとき明治維新で禄を離れ、千利休の火箸を作ったという伝にならい、それまで余技だった火箸づくりに転じた。当代 明珍宗理は、平成4年に第52代明珍を襲名。
                                     引用の終わり


兵庫県物産協会のホームページより

http://www.hyogo-bussan.or.jp/story/index.html

有限会社明珍本舗

鉄打ちをする明珍さん



明珍風鈴




追加情報

神戸新聞 2014年2月28日

大賞に金工の明珍さん
姫路芸術文化賞 7人2団体選出

姫路市が27日、芸術文化に貢献した個人・団体をたたえる「第36回市芸術文化賞」を発表した。大賞は、伝統工芸に現代的な感覚を持ち込んだ金工師の第52代明珍宗理さん(71)=同市伊伝居=に決まった。
明珍さんは甲冑(かっちゅう)師だった姫路・明珍家の技を受け継ぎながら、火ばしを進化させた風鈴の作品で高い評価と人気を得ている。玉鋼やチタンを素材にするなどの挑戦を続け、世界文化遺産・国宝姫路城の「平成の大修理」では江戸時代の金具を再現するなど貢献した。



 




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