2. 小さな町、兵庫県加古川市国包(くにかね)の話

 2013年10月30日記事  2014年1月10日再掲

 川面を覗き込むと底まで透き通った水に魚が群れをなして泳いでいる。加古川に入る支流の美嚢川(みのがわ)から引き込まれた農業用水では子供たちが魚とりに興じる。夏ともなれば、この加古川での水泳が楽しみだ。これは、約50年前に子供時代を過ごした国包の古き良き記憶だ。

 国包は兵庫県を南に流れる大河・加古川の中流と下流の境に位置する。現在、人口約1000人のこの町は、江戸、明治、大正期の賑わいから、今は静かな田舎町へと変化している。高瀬舟による加古川の南北商流と、姫路から有馬温泉へと抜ける江戸時代の主要東西道・湯山街道が交わる要衝の地であったと聞く。今は全くその面影はない。高瀬舟による商流は鉄道やトラックに取って代わられ、同じく東西道は瀬戸内海沿いの山陽道が大いに発展したため湯山街道は寂れた。

 ぽつんと取り残されたこの町は、阪神淡路大震災の前には、加古川市のなかで江戸時代の佇まいをとどめる町として、私の記憶では加古川市の歴史的景観保存地区に指定されていた。しかし、震災とともに江戸時代の古くて大きな家々の多くは消え去り、更地と現代風の家々が並ぶ街へと変化した。主力産業である国包建具の製作も、時代の要請には少し高級であるため、今は苦戦を強いられている。これも時代の流れといってしまえばそれまでである。

 しかし、プラスの変化もある。山陽自動車道が近くを走り、加古川市街からの南北道の工事が進行中である。国包を流れる加古川では、かつての高瀬舟舟運に代わって、いまはレガッタ競技が行われている。土曜日、日曜日ともなれば多くの大学生が練習や試合に訪れる。また、震災後に河川敷にできた道路ではフルマラソンが行われ、国包がこのマラソンの折り返し点となっている。訪れる方々、そしてこの町を通過する方々に、ここが国包と意識していただけるならば、国包を知っていただく良い機会になるものと思う。そうするための何らかのキッカケが必要である。勿論、主要産業である国包建具を含めてである。

 小さな町ではあるが、加古川の市街地までは車で20分。自然に恵まれ、気候に恵まれ、住み慣れればそこそこ住みやすい町ではないかと思う。かくいう私も、実質的には高校を卒業と同時に国包の地を離れたので、今は同じ加古川市に住みながら国包事情には疎くなっていた。私と同じく、この町を巣立っていった方々は多くいる。この度、約1ヶ月をかけて国包について勉強した事柄をホームページにまとめた。本ブログ、そしてホームページが国包と何らかの縁のある、そしてあった方々にとって、現在の国包を知り、懐かしく思い出していただける手助けとなればと期待している次第である。




文書リストに戻る ホームに戻る