国包けやきの会 2017年新春セミナー 第二弾


旭堂南海師による講談「加古川の舟運と鉄道ものがたり」


兵庫県加古川市国包(くにかね)の新春セミナー第2弾。旭堂南海師による、国包の地元に関する講談でした。

面白おかしさの中にも歴史的事実と、その事実に至る原因および必然性に、なるほどと頷く1時間半でした。

加古川の舟運における国包の地の利、なぜ播州鉄道(加古川線)が国包で加古川を渡っているかなど、加古川検定で言うと、超難度の知識が仕入れられた今回のセミナーでした。加古川検定の過去問を見ても、国包に関しては上級編で「国包の読み方を答えよ」という問題でしたので、それを遥かに超えた内容となっていました。

写真は本日の講演風景、講演に先だっての国包けやきの会会長の藤原忠悟さんの挨拶および講師紹介、加古川線国包鉄橋、そして国包の渡跡です。私が子供の時にはまだ渡はありましたが、いまではここでレガッタの競技が行われています。

旭堂南海さん、ありがとうございました。



※ 多少の聞き間違いがあるかもしれませんが、地域の財産として、お教えいただきました
   内容を書き起こしました。写真の下より始めますので、ご覧ください。



講談の開始を待つ会場 13時 国包新春セミナーの始まり 左に司会者 右に講師
国包けやきの会会長 藤原忠悟さんの開会のあいさつ 神戸新聞2月19日で国包けやきの会活動が紹介されたと
旭堂南海師による講談の始まり 講談にもいよいよ熱が 
聴衆は魅了される 国包町内会長のお礼のあいさつ
国包渡し跡 これも舟運の名残 今はレガッタの練習や競技場となっている
加古川線の国包鉄橋 川に沿って通る道路 フルマラソン折り返し点






国包けやきの会 新春セミナー 第二弾  平成29年3月12日

旭堂南海師による講談 「おもしろ国包講談・加古川の舟運と鉄道物語」

 

 これは師の講談を拝聴した一個人である私が、故郷国包について得られた情報をできる限り正確に書きとどめようとした一文である。聞いて感じたことを書面にしてみようとするのであるから、聞き間違いや書き間違い、そして誤字や脱字は当然のことながら各所に散見され、同時にこの講談を聞かれた方からは、ここは間違い、そんなことは言ってなかった、というお叱りはあることと思う。それを承知の上で、国包の財産となればとこの講談の内容を書きとどめる次第である。間違いや誤解している部分はご指摘いただければその都度訂正していこうと考えている。

 

師の講談を拝聴して思ったのは、さすがにプロであるということである。響きのよい声で強弱をつけ、絶妙な間合いを取り、聴衆を魅了する言葉がその口より立て板に水のごとくに溢れ出てくる。聴衆をその話術に引き込み続けた1時間半であった。

 

お決まりの「講釈師、見てきたようなうそを言い」からこのお話は始まるが、聞いていて嘘は全く感じられなかった。それどころか、歴史的必然、理路整然、なるほど、そういう力関係が働いて今の国包が存在しているのかと妙に納得してしまった。師は国包人よりも国包人である。

 

それでは、講談の流れを追ってお話の始まりである。

 

まずこの手に取りたる張り扇(はりせん)。これは杉原紙でできている。この杉原紙は一時はその存続が危ぶまれたが、長い繊維がしっかりと絡まり合い、非常に機能性が高いことが見直され今日その存在がある。同じように、国包は古くより建具が有名である。とここで杉原紙の張り扇で講義机を一発たたくと、実にその音が鈍く、響きが悪い。国包建具とはこの程度のものかと(ここで一同に笑いが)。かくして講談の舞台へと聴衆は引き込まれた。

 

国包の名の起こりはわからない。不明である。昔は名田というのがあったので、名主の名前であるのかもしれない。あるいは、国包の地は1225年の加古川大洪水までは加古川の右岸(西側)にあった町である。この洪水前は国包を回り込むように加古川が今よりは南側に大きく蛇行していた。その証拠に船町(古地図では舟町)という地名が残っている。また、船町を含むこのあたりは望理郷(まがり)とも呼ばれていた。まがりとは曲尺(かねじゃく)のカネであるので、国包(国カネ)と呼ばれたのかもしれない。

  
 この頃の加古川は、今名残が残っている洗川(あらいがわ)のところを本流が流れ、その河口は今市であった。姫路藩の一代目藩主の池田輝政が物流を活性化させるために、今の加古川の位置へと流れを大きく変え、高砂の港を強化した。加古川の流れが不自然に急に南方向を向いているのが見て取れる。
 

 

国包の真横には加古川が流れている。そこから水を引いて来れば国包は豊かな地となると思われるのだが、如何せん、川面は国包の地面より低いところにある。農耕のためにも国包では井戸より水をくみ上げる必要があった。国包に嫁をやると苦労するというので、嫁を迎えるのも難しかったようだ。その一方で、加古川の水量が増すと国包はそのたびに洪水に襲われた。水不足と洪水、国包の真横に加古川が流れながら、国包はその恩恵に与ることができなかった。
 

国包に築山がある。この築山は国包出身であり、大阪中の島の米の仲買で成功をおさめた長浜屋新六郎が、洪水で苦しむ生まれ故郷国包の住民が水害時に避難できる場所として、私財を投じて作ったものである。長浜屋新六郎は郷里を離れてもなお郷里に愛情を示した。

 

参考資料

  国包の築山(わがふるさと国包)

 

1772年の国包村明細帳によると国包の人口は700名、少数の田持ちと大勢の小作人が記されている。宿が10軒、医者が3名。医者が多いのは国包の住民の多くが病気持ちであったということではなく、国包という町は加古川舟運と湯の山街道の交差点であり、人の往来も多く、それだけ医者の需要があったということである。

 

参考資料

  国包村明細帳(わがふるさと国包)

  国包村明細帳(くにかねをよりよく知るために)

 

国包については2つの物語が同時に進行していた。一つは亀の井用水の工事であり、もう一つは加古川舟運の主導権争いである。

 

 

亀の井用水

 

亀の井用水は畑応親(畑平左衛門応親、南海師は「まさちか」と呼んだ)およびその仲間(畑源右衛門、畑国列(畑伝右衛門国列)、高橋源右衛門、大工藤蔵)により文化10年12年(18131815年)にその具体的計画案が作り上げられた。畑姓が3名含まれる。公会堂横の石碑にはその名前が記されている。この石碑であるが、亀の上に石碑が乗っている例は極めて少なく、これは亀は万年にちなんでこの用水が末永く村に恩恵を与えることを祈願したものであると考えられる。 
 

参考
  湊川神社の楠公墓 碑石は下部の亀の形をした白川石製の部分と和泉石製の
  板状の碑石からなる。
 

 

まずは水路がどこに通せるかを確認する必要があった。高低差を正確に見極めなければならないので、メンバーに大工が含まれる。この水路計画が漏れた時には、あらぬ疑念を抱かれる可能性があったので、一行は夜な夜な線香の明かりを頼りに測量を行い、3年を要して3本の水路計画を決定した。国包だけのことを考えればこの水路は1本だけで良いのだが、他の村々のことも考え、水路を3本引くことにした。国包という地は、先に示した築山の例でも分かるように、自分だけのことを考えるのではなく、他にも利益を与えることを考える。そんな土地柄であるようだ。

 

さて、その水路の取水口は三木川(美嚢川)と決定された。しかし、国包は姫路藩、一方三木川の取水口は高家松平の明石藩領地である。明石藩がとても了承するとは思えなかった。畑応親は、まずはすべてを自費で賄うことを条件に姫路藩にこの工事の許可を願い出た(実際は御入用普請)。許可を得ることは難しいと思えたこの工事は許可された。この許可の裏には、畑応親が亀の井用水完成の暁には、次に明石藩の領地内に三木川より水を引くとの約束があったことが功を奏したと考えられる。この工事完成により大幅に水田面積が増えた。

 

参考
  御入用普請とは、藩の費用負担で行われる工事のこと。
  文化13年(1816年)に畑応親が17貫目を借入れて工事を開始
  姫路藩は毎年その利子分の約1貫目強を応親に支給
  工事完成の文政7年(1824年)の残額は16貫目強であった。
  これを全額、この年に藩が返済した。


参考文献

  亀の井用水(わがふるさと国包)

  亀の井用水(国包をよりよく知るために)

  亀の井用水を歩く(国包をよりよく知るために)

 

 

加古川の舟運

 

加古川の舟運は年中行われていたわけではない。秋の刈り入れ後から翌年5月までは加古川の舟運を利用し、それ以外の時期には荷馬車を利用して物資を運搬した。この舟運であるが、黒田庄西脇は西村家が支配し、闘竜灘高砂は阿江家が支配していた。加古川下流の主な舟場は、高砂−船頭−国包−市場であり、船頭と国包の間に芝があった。芝は加古川の右岸、国包は加古川の左岸である。国包には78人の舟持がいた。

 

舟運における事件は文化6年(1809年)に起こった。文化6年と言えば、三木川から畑応親らが水を引こうと画策を始めた4年前の話となる。当時、加古川西岸の志方の年貢米は一旦芝村の倉庫に収められ、そこから舟で高砂に運ばれていた。同じ志方と言っても姫路藩の領地だけでなく東志方には一橋家の領地もあった。飛び地である。各藩は豊かな農地のあるところに小さな領地を持っていた。大庄屋はこれら各藩の農地より責任を持って年貢米を集め、それを一旦芝の倉庫に納める。その後、その年貢米を舟で高砂に送る。

 

高瀬舟を運行するには免許(親方株)が必要であった。芝村の舟主がこの免許を持ち年貢米を高砂まで輸送していたが、副業として干鰯を上流へと運び、滝野から国包へは酒樽を運ぶなどしていた。この舟主たちの契約違反(副業に専念して本業をおろそかに)に怒った志方の9つの村は、芝村の船頭には年貢米は運ばせないとし、結局この年は年貢米を高砂まで送り出すことができなかった。

 

翌年、志方村は芝村へは年貢米は預けないことにした。隣の里村には高瀬舟が1艘しかなかった。年貢米運搬を名乗り出たこの里村の惣吉は、舟も親方株も持っていなかった。それでも惣吉は年貢米の運搬を引き受けた。そこで怒ったのは芝村である。なぜ芝村を差し置いて親方株を持っていない里村か、というのである。

 

この問題解決のために神吉の大庄屋が間に入った。その結果、惣吉はこの年は舟を借りてきて年貢を運び、次の年も滝野より中古の舟を借りて年貢を運んだ。そして、舟を1艘新造した。その後、惣吉が契約外の見土呂村の荷を滝野に運んでいるところを、芝村の船頭が現行犯で捕まえ、高砂の番所へ突き出した。これを好機と見た国包の船頭は庄屋を始めとして、姫路藩に志方の年貢米を運ばせてもらえるよう願い出、その許可が文化11年(1814年)に下りた。

 

参考文献

  加古川舟運(わがふるさと国包)

  一橋家年貢米を国包・宗佐の舟で運搬許可(加古川市史)

 

国包は舟運で繁栄した。上り舟は舟子がロープでホーホーと声を掛けながら舟を引っ張り、下りは竿を操って国包まで来る。高砂−国包間はその運行は容易であった。滝野を夜2時に出ると国包で朝を迎える。船頭は国包で休む。ここから先は安全なので、舟子2名で高砂へと向かった。

 

 

播州鉄道

 

世の中は鉄道建設の時代に入りかけていた。ちょうど、明治22年(1889年)に舞鶴に軍港ができることになり、ここに資本が集中することとなった。そこで、すべての新路線は舞鶴と何らかの関連性を持たせたルートとして計画されるようになった。播州鉄道も谷川まで延ばせばあとは舞鶴につながるとの算段で計画された。小野の斯波与七郎(しばよひちろう)は私財を投じて播州軽便鉄道を建設することを決意した。 
 

参考
  斯波与七郎 左岸の土地を播州鉄道に提供した。田地二百余町歩、青野原の山林は
  多分に所有、年貢(小作料)も一千石を所有し、かつては領主に御用金調達もして
  いた。鉄道建設を決意、来住(きし)村の稲岡猪之助、平荘村見土呂の大西甚一平
  滝野村の阿江勲らに相談し、「高西鉄道」を計画する。コースは加古川沿いに、
  高砂―加古川―厄神―河合西―滝野−西脇である。

 播州鉄道は高砂から谷川までの私鉄として計画され、具体的には高砂国包、国包西脇、西脇谷川の3つの区間に分けその建設が進められた。このうち、一番最初に開通したのは加古川厄神間で、このときには厄神駅を国包駅と呼んでいた。後に、三木線が開通して国包駅ができたとき、今の厄神駅へと改名された。現在の加古川線は、加古川−日岡−神野−厄神であるが、できた当初は加古川と日岡の間に播鉄中野停留所が、日岡と神野の間に釣橋駅があった。そして、加古川線が西脇まで開通する4か月の間は、国包駅(厄神駅)が加古川線のターミナルであった。

 

加古川の左岸は人口が多い。右岸を通す方が土地の買収価格は安くなる。加古川の左岸に位置する市場には、かつて大金持ちで地主の近藤家があったが、江戸時代の一揆でその財産の多くを失い、自分の土地に鉄道を通す力はすでになくなっていた。

 

加古川線は最初は三木の向こうで加古川を超える予定となっていた。これに反対したのは国包の住人177名(代表者は畑昌ト、亀の井用水・畑応親の子孫)で、国包の上流で川床の木などを伐採されては洪水が多くなるからというのがその理由であった。当時の住民がこのことを国に訴えてそれが認められ、厄神−市場間で加古川線は加古川を渡ることになった。国包鉄橋である。

 

参考文献

  播州鉄道(わがふるさと国包)

  播州鉄道、架橋位置変更の陳情(加古川市史)

 

鉄道が敷かれ始めるこの時期、日本各地には地の金持ちがお金を出し合って設立した小さな銀行が数多くできた。それらの銀行は時代と共に、たとえば大西銀行、国包銀行→神戸銀行→太陽神戸銀行→→と大きな資本へと統合されていく。銀行主は鉄道への投資が一番割がいいとの判断をしていた。そして、実際に大きな資本を播州鉄道につぎ込んだ。いざ播州鉄道が全線開通してみるとその思惑は大きく外れることになる。開通当時にはまだ馬車が勢いを持っていた。加古川線開通と同時に高瀬舟はなくなったが、高瀬舟舟運と同じ会社が馬車を走らせていた。このため、鉄道の利用までには至らなかった。また、鉄道に乗って遠方へ行こうとする人も少なかった。播州鉄道そのものは10年で経営難となり、赤字事業として整理ポストに仕分けされ国に買い上げてもらうのを待つ状況となった。ぎりぎりで国が買い上げを行ったため、銀行は助かった。

 

このような鉄道であるが、山陽本線は旧山陽道にそって計画された。このことは山陽本線は高砂を通るのではなく加古川を通るということである。このことより、舟運と海運を結び付けて繁栄を極めていた高砂は、大きな輸送力をもつ山陽本線が通る加古川へとその地位を明け渡すこととなり、その結果、加古川が勢いを得ることになった。高砂と加古川の地位の逆転である。

 

鉄道ができる前には高砂に三菱製紙があった。山陽本線が加古川を通ると計画されたとき、加古川に日本毛織の工場建設計画ができた。

 

その他の参考文献

  川と共に生きる(国包けやきの会)

  国包の歴史年表(わがふるさと国包)  正誤 教信寺 → 教泉寺

  国包に関する古文書目録(加古川市)






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