多木久米次郎 

(多木製肥所内多木久米次郎伝記編纂会、昭和33年発行)p14より

 

 多木の先祖が徳川時代の中期から、はじめは「彦兵衛」を名乗り、ほしかの商売を営み、「乾鰯屋(ほしかや)」をもって屋号とし、次第に家業を発展せしめ、千石船を建造し海運業をも手がけて産を築き、東播地方にあって、「別府の乾鰯屋」として世間に知られるに至ったことは、菩提寺宝蔵寺の過去帳なによって確証される。この彦兵衛家の24代目、副春の三男伊三郎が分家して一家をなしたが、その子孫が代々伊三郎を名乗り、次第に家名を揚げた。この伊三郎の4代目(幼名金蔵)は印南郡国包村(くにかねむら)畑伝右衛門の四男であるが、才智秀れ気性高邁(こうまい)な青年であったので、先代伊三郎はその長女うたに配して養子とし、家督をつがしめた。果然金蔵は果断なる家業経営を断行し、家運大いにあがり、数隻の千石船を駆使して松前取引を行い、中国筋近港の同業者を圧した。任侠心厚く細民を救恤(きゅうじゅつ)し、水利、土木をおこし、橋梁架設、道路改修、新田の開発など多くの事蹟を残し、名声とみに四隣にあがり、家名を大ならしめた。また、藩主に御用金を献じ、特に帯刀を許され、嘉永6年(1853年)卒去した。法名を天輪院大徹智照居士という。

 3代目伊三郎の嫡男を勝市郎と呼んだ。文政8年、正月15日(1825年3月4日)に生まれた。3代目が長女うたの夫として4代目伊三郎の金蔵を迎えたのちに、男子勝市郎が生まれたのである。養子の伊三郎は、「多木家に男子が生まれたのだから、家督はその男子が継ぐべきである」と家督相続を辞退した。だが、父伊三郎は「養子にしたときすでに、多木家の相続者は決まっている、その後に実子が生まれたからといって身勝手なことは本義に戻る」といって辞退を許さず、結局勝市郎には父の財産をわかって分家した。



三百藩家臣人名辞典・第5巻(1988年、家臣人名辞典編纂委員会) p243 
 多木伊三郎(たきいさぶろう)文化四年、嘉永六年〔一八〇七、一八五三)姫路藩御用達,大庄屋。苗字帯刀。播磨国加古郡別府村の商人地主。印南郡国包村の庄屋畑伝右衛門の四男に生まれ、三代目伊三郎の長女うたと結婚して多木家を嗣いだ。幼名金蔵、諱金重、通称伊三郎。 I の干鰯商から屋号を干錄屋と称した。数隻の千石船で松前と取り引きし、また江戸と米を取り引きし、両替商も営んだ。 





ホームに戻る