歴史を歩んだ町・高砂を散策(2014年6月21日)


高砂市(Wikipedia)

加古川に接した工業都市。漁業や採石業も盛んであり、これらは古い歴史を持つ。市内南部を中心に神社が多く、播州の秋祭りと総称される祭礼が知られる。


「たかさご」とは、砂が河口で堆積して盛り上がった状態を表す古語「たか-いさご」が転訛した、地形を示す一般名詞であった。「高砂」が加古川近辺の寄港地を示す地名として確認できる最古の文献は827年天長4年)ごろに編纂された『経国集』13巻

少なくとも平安時代までには「高砂泊」と呼ばれる漁業や物流の拠点がこの地域に成立したと考えられている。ただし、この「高砂泊」は現在の高砂町にあたる地域とは異なり、加古川をはさんだ対岸の、現在の加古川市尾上町にあった。

鎌倉時代には塩田による塩の生産が始まる(これより以前、現在の荒井町にあたる地域で行基による製塩指導が行われたという伝説がある)。室町時代より梶原氏が代々城主をつとめた高砂城は、戦国時代三木合戦の際に別所氏側の兵糧供給拠点となったが、羽柴秀吉によって落城させられた(高砂城の戦い)。

姫路藩成立後、加古川流域の開発事業として現在の高砂町にあたる地域への港の移設と区画造成が開始された。その後江戸時代を通じて、高砂は加古川の舟運をベースにした物資の集散地として、またここに御用蔵を設けた藩の拠点都市として繁栄することとなる。

水が豊富であり、かつ海岸が埋め立てに適した遠浅の地形であったことから、維新後、工場の立地が相次いだ。



高砂神社(Wikipedi)

社伝によれば、神功皇后西征大己貴命の加護によって果たされ、その凱旋の際に、大己貴命の「鹿子の水門(かこのみなと)に留まる」との神託を受け、神功皇后の命により大己貴命が当地に祀られたことにより創建されたという。

あるとき、1つの根から雌雄2本の幹をもつが境内に生えた。この松は、尉(伊弉諾尊)と姥(伊弉冊尊)の2神が宿る霊松とされ、相生の松と称された。初代相生の松は天禄年間に、2代目は兵火によって天正年間に枯死したと伝えられている。本多忠政がこれを惜しみ、遷宮の際に3代目の相生の松を植えたと言われている。3代目相生の松は大正13年に天然記念物に指定されたが、昭和12年に枯死、幹が霊松殿で保存されている。現在は5代目の松が枝を張る。


十輪寺(Wikipedia)

寺伝によれば、この寺はもともと唐より帰朝した空海によって、815年弘仁6年)「地蔵十輪経」に基づき、勅を奉じて、鎮護国家の祈祷書として、地蔵山十輪寺と号した真言宗の寺院であったが、1207年建永2年)法然が地元の漁師に説法したことから、法然の弟子の信寂房が、法然を中興開山に迎えて、再興して西山派の流れをくむ浄土宗の寺院になったという。





高砂町の地図(高砂観光協会)


 
掲載した代表写真
本町商店街 下村あなご店
高砂商工会議所 三連蔵
高砂神社 三菱製紙魚町倶楽部
十輪寺 梅ケ枝湯
アーケード街 高砂や



写真集

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高砂神社    写真1  写真2  写真3  写真4
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十輪寺      写真1  写真2
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